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変わったな、と言われたら [恋愛]

彼に「君(お前)、変わったよ」とがっかりされるシーンがよくあるけれど、

女性の本音はというと、

「もとからよ」とか「急に変わったんじゃないわ」となる。


男性がなぜそう思ってしまうのか?

なぜ明確に変化するまでに気づいてもらえないのか?



こんなことを聞いたことがある。

“ 男性は女子の見た目から、内面やこれから先を想像する ” と。



・・そしてピンときた。

女性は自分が “ 人 ” としてどうなのか?

という問いかけの前に、

女として魅力的になる為に、雑誌やTVから理想の女性像を見いだすことがよくある。

好きな人のタイプや、自分に持ってない魅力を持った女性と、

自身を比較して、そこを埋めようとする。


そうなると、元々持っている本質と、違うものが外見に表れたりするのだ。


ある女性の例で言えば、

一見、華やかで・サバサバしてて・気が強そうな見た目と、

かまってほしくて・毎日電話したくて・必要以上に尽くしてしまう内面。

逆もしかり。

このギャップが実は男性を悩ませてしまうのではないかと思う。


付き合い始めは見た目と、外見に合わせたフリで上手くいくかもしれない。

でも女性も相手に分かってほしくなって、愛されたい内面を見せていく。

男性は始めの印象を信じきっているから、

その変化を真っ先に本物だと認識されない。


女性には出会った時の印象のままでいてほしいのではないか。

と、あの時聞いたことは間違っていないのかも、と思った。


私ももちろん経験している。

ただそれに気づいて、

出会った頃の雰囲気を思い出して、

自分の変化と思っていたことが、元々の私だったと説明したり、

思いつく限り、傷つけたことを謝った。

距離もとったし、

年単位でそんな関係が続いた。


やっとニュートラルになった(と思う)

喧嘩も一切ないくらい、おたがい嫌な面を出さなかったのに、

今は冗談で相手をつついたり、嫌なこともネタにできる。


ということで、私の結論としては、

“ 女性は内面を外見に表すといい ” ってこと。

着飾りたいようにしてもいいけど、すこしでも自然体を大切に。

後で分かってほしいと思うことを自分の味にしちゃうくらいに。


「自然体の自分を好きになって、それに共感してくれる相手」

に出会えるといいな。

仕事で得られるチカラ [仕事]

得たいことを決めて、仕事に就く。


初めてのバイトから今まで、割とこんな気持ちで仕事に就いてきた。

現役で専門学校に行かせてもらったから、専門的な仕事が

実社会の入り口だった。


自分にある程度の知識・経験が身に付くまでは、

ひたすら、こなすのみ。

大ベテランの職人さんに、

「学生で学んできたことは、単なる土台に過ぎない」

と言われた。

ようは出来る気になってくれるな、という戒めの言葉だ。

これから会社で得ることが社会の中の技術であり、

学生で教えられた基礎にも満たないことに肉付けをしていって、

お給料をいただくことにつながる、と。

少しむっとしてしまったのだが、後にそうであったと確かに実感した。


何にせよ、“ 基礎 ” って本当に大事なのだ。



高校では吹奏楽部だったのだが、

出来ないことが山積みで、

ひたすら基礎に磨きをかけていた。

やはり一番楽しいのは合奏なのだが、

そこで出来ない所を細かく噛み砕いて練習する。

一音ずつ拾って、また基礎に戻る感じ。


結局基礎ができてないと通して吹くことは出来ないので、

少ししか時間がない時はとにかく基礎をやった。


そのおかげか、コンダクターの注意はほとんど受けず、

音量も、音の正確さも安定し、

OB・OGに声をかけてもらえるようになった。



そんな小さな成功体験があるので、

どんなに些細なことでも言われたことを素直にやり、

そこから真意を探るようになった。


そして一本の “ 木 ” としての質を上げていく。

ハウツーを自分のものにして、上司の求めるものを出せるようにする。

こんなに部下が頼もしくなれば、替えがきかなくなってくる。

いつしか自分のノウハウが出来ている。

そうなるまで頑張るのだ。


与えられたノルマをこなせてくると、新しい仕事がくる。

手が早くなってきたら、

自分から仕事を作り出して、環境を良くしていってもいいかもしれない。

足りない資料があれば作ってみるとかね。


それを入った時から意識していると、効率的に仕事できるし、

やらされてる感が少ない。

入った時からトップスピード出してみよう。

だってお給料もらいながらスキルをあげられるのだ。

替えのきかない社員になろう。


その先に “ 働き方を選択できる自由 ” が待っているのだ。


服装との確執2 [パーソナル]

「服装との確執」で

・何を着たらいいか分からない

・着たいものが浮き出てくるまで散財したくない

・それまでは自己投資だ

といったことを書いた。


何を着たらいいか分からない、を解決するには、

分かるまで、いろんなものを試す他ない。

そのいろんなものを試す労力とお金を考えると、

ファッションに使いたいと思えなかった、という話ね。


そのあとに、

・コンプレックスが強すぎて、美しいものを着る自信がなかった

というのがふと出てきたの。


なんか、“ 一人前の大人になるまで遊んじゃいけない ” ような意識があった。

その “ 一人前の大人 ” って言うのがいつも立ちはだかってた。


高級ブランドだって、単にオシャレとして買いたい!とも思えないし、

扱いきれる感じもしない。

そう思っているうちは買わない方がいいなって。


どうなればいいのか。


服装を楽しむための、 “ 一人前の大人 ” の条件 (独断による)

・見た目が洗練されてくる

・精神的に強くなる

・専門的な知識まで身についてくる

・仕事を確立して、稼ぐチカラをつける


・・ようは他と比べることなく、自立したいってこと。


“ 一人前の大人 ” になったら、遊べばいいやと思ってきた。

好きな服買って、好きな人とおいしいもの食べて、

旅行行って、みんなでハッピーになって、私もハッピーになる、と。

そうなるためには頑張るしかないじゃんて。


で、この年になって、

ようやくその的に手が届きそうな位置に来たかな?

と感じてきた。


その意識を忘れてきてるとか、諦めるのじゃなく、

自分を認めることに柔らかくなってきたから

そろそろ厳しくするのを控えてもいいのかなって。


自分に似合う服が分かってきたし、

欲しいものがハッキリしてきた。

センスを生かす時が来たのかもしれない。


この感覚って素敵だ。


長いこと待ち続けた甲斐はある。


頑張ってる最中って、一体どこを走っているのか全然分からないけど、

的はちゃんと見えてくるものなのね〜


プロセスを楽しんだかって聞かれたら

そんな余裕はなかった、と答えるしかない。


でもたどり着けることを知れば、

これから楽しむ余裕も生まれてくるかもしれない、と思った。


なんと!気づけば50記事。 [パーソナル]

とうとう50記事超えました。


日記やらお小遣い帳やら一切続かなかった、

そんな私でもブログを書き続けることが出来ている。。

ありがとう。


新たな自分を発見しつつ、日々記録を更新していこう!


私に何が発信できるか?っていうのは少し前から考えていた。

情報にしろ、資料にしろ、はてなにしろ、

現代においてはたいてい探せばある。


ネットのいいところは能動的にやったことを置いておくと、

欲しい人に見つけてもらえるってこと。

リアルだと欲しい人を見つけにいかなきゃならないからね。


やっぱり家庭環境について思うこと、

こんな記事がもっと若い時に読めていたらよかったなと思うもの、

時を経て、年を重ねるごとに変化する意志、

なんてのを綴っていきたいなと思う。

それが形となっていくのが楽しいと思えるようにもなったしね。



今なら、いつでも、簡単に、どんなことでも

たいていは “ 検索 ” すれば答えが見つかる。


私の子供の頃なんてまだ、そんな便利なものはなかったから

自分でやってみるしかなかった。

いくら親や先生がダメだ、と教えてくれても、

自分でやってみないと分からなかった。


その行動力の結果、今の自分になっているわけだから、

それまでに営みが強みだと思う。



“ 根性 ” で全てが分かるわけでも、変わるわけでもないけれど、

この世代にしかない視点で、

実体験に基づく “ 一次情報 ” を書き留めていこう。



クリエイティブの発祥時期 [ときめき]

クリエイティブの世界って、だれでも出来ると思っている。

あの子が出来るなら、あなたにもできるよ

って親や周りが背中を押してくれさえすれば。。


子供の頃から絵を描くのが好きで、何か作ってみたくなる性分。

何でそうなったのか。

そこを深堀りしてみる。


私の影響元は、母親にあると思う。

子供の私が描けないものを本気で見せてくれていた。

女性像を描けば雑誌のモデルのようにキレイ。

誰かにカードを送る時に相談すれば、私よりだいぶ素敵に描かれてしまう。

家にいておままごとしたい時は、画用紙でおでんのタネ作ってお店ごっこ。

私よりも小さく、本物そっくりに色づけして。

どれも友達とは味わえない刺激だった。


さらには私の課題に母親の意見をぶつけてきたり、

もっとこうした方が・・と手を加えられることもあった。

普通はそんなことされたら、兄弟のように

自分の作品を汚されるとか、認めてくれないって

感覚をいだくと思うのだけれど、

私は違い、『勉強になるなあ』という感じだった。

作品に関しては、母というより先生の感覚だったのかもしれないな。


そして、「あなたもできるわよ」と一言。

私は本当にそうなのか、確認したくなる。

自分なりの満足いくものを見せたら褒めてくれるので、

もっとうまくなりたい、

って思いつづけた。


途中で過去の自分を振り返ると、

確実にうまくなってる。

ということは、

もっと描けばもっとうまくなるって思考になるんだよね。



その確信が定着すると、

母親に褒めてもらえるようになっても、

いつもいつも

もっとこんな風に描きたい、

あれを見なくても描きたい、

字はこんな風に書きたい、

頭の中の形を、具現化したい、

自分の表現方法を見つけたい、

あれ試してみたい、

という興味の渦がグルグルする。


気づいたときにはすでに、

底なしのパワーがみなぎっちゃっているもの。

それが好きなことなのだ、と思う。


今では似顔絵描いたら喜んでくれるし、

その感性に共感してくれる人には何か頼まれたりもする。


コンクールとかコンテストは好きじゃない。

自分が愛していればいいと思う。

それをビジネスにしたいなら別だけど。



もし親として子供に何か興味を持たせたいのであれば、

本物を見せること。

やりたいことをやっていいのだし、できると背中を押してあげること。

落ち込んでいたら、そこに対する情熱の存在を教えてあげること。



ちなみに、

なぜ絵を選んだのかというと、

紙と描くものさえあれば、あとは何もいらないから。

すべては脳の中で生み出されるし、

お金かからないし、

目の前にスペースがあればどこでもできる。


あと黙々とやっていれば手もかからないだろうし・・

っていうのは大人の私だから言えることね。


服装との確執 [パーソナル]

何を着たらいいのか分からない、とずっと思っていた。


小学生の頃は与えられた服の中で、適当に選んでいた。

買い物に連れて行かれても、何でもいいし、試着とか恥ずかしい。

何日か同じズボンをはいて、

同じの二つあるんだとか言ったりもしたなあ。


学生の制服って楽だよね。

毎朝の時間短縮にもなるし。

高校では “ オシャレ ” に気を遣ってそうな子もいたり、

お金持ちの子はヒスのビニールショッパーを肩にかけたり、

アイデンティティを表し始めていた。


その頃から今に至るまで、私はそんなに服にお金をかけない分、

興味のある資料とか、素材とか、外部との人付き合いに使っていた。

“ 何が着たいのか分からないうちに、そこで散財する気になれなかった ” のだ。


着たくないものはわかる。

すれ違う人々をみて、それないでしょ、っていうのもある。

そんな消去法ではアイデンティティは見つからない。

でもいいな、と思うものは値が張るものも。。


ということで、今はビジネスカジュアルをベースに、

いいものをすこしずつ集め始めたところ。

過度なアクセサリーはいらないし、

清潔感があって、着心地がよければよい。


そんな風に、“ 印象と本心 ” をすり合わせるようにしている。


これならモテそう、

あの子に褒めてもらえそう、

という他人の目はさておき、

いくら興味がなくてもださくはなりたくない、、

というところを押さえながら、

欲しいものを浮き出させる。


それがアイデンティティになるんじゃないかなと思って。


他のことをしていても、

見つかるまで買いあさらなくても、

意識だけして、目につくものを気に留めておいた。


これから楽しめそうな予感がする。

我が家の注意の仕方 実践例 [家族]

構造はシンプルなのに
情報や人目によって複雑になってしまうことって日常茶飯事。

ただ、“ なんかそうなっちゃった ” という結果というのは、
自分が動けば解決できる。

出来なかったんじゃなくて、やらなかっただけ。
とよく聞くけれど、
そうなっちゃったんじゃなくて、そうなることに疑問をもたなかっただけ。

意志をもって動いていないと、流されるのだ。


流されたり、振り回されたくなければ、
“ 芯ある自分 ” になるしかない。


“ 芯ある自分 ” になるキッカケをつかむためには、
自分のアンテナを強くしないといけない。

それには “ 自分なりの本質 ” を意識し始めること。


さらに本質を意識した自分を作る土台となるのが、
“ 親の愛情 ” なのだと思う。


ー 絆と信頼を築く「我が家の注意の仕方」ー


社会には WIN-WIN という概念があるけれど、
親子という社会にもあると思う。

親が子供に言うことを聞いてほしいのであれば、
子供だって聞いてくれる環境がほしいもの。

保護者だからとか、立場が上だからというより、
人として尊重されながら注意をうけたいもの。

だから一方的に体罰で分からせようとしたって、
自分という存在を受け入れてくれてなければ、響かないのだ。


実際私の場合を思い起こすと、

母親は厳しい注意をしてきたけれど、
同じかそれ以上に、私のいい分も聞いてくれていた。


これだけで WIN-WIN なる。

意外と簡単で、シンプルなことだと思う。


全然筋の通ってない言い分も、
企みがだだ漏れの言い分もだし、

ちっちゃな疑問を聞いても、
親にとって都合の悪いことを聞いても、応えてくれていた。

兄弟ゲンカでも間に入って、両者の言い分を聞いて、
おさめてくれていた。


そうやって日々忙しい中、
こちらの動きに対応してくれて、満たしてくれていれば、

注意だって聞かなきゃな、って自然となるよね。


人の迷惑になるから、って言われる時も、
親は人の迷惑になることをしてないなという、
言ってることとやっていることの “ 一貫性 ” も大事だと思う。


“ 一貫性 ” は仕事でも同じ、友人でも同じ。

周りにいないのであれば、自分に “ 一貫性 ” を持つ。


気づけば、“ 類は友を呼んでいる ” よ。



気づけば、子供のせいにする親 2 [家族]

前回の続きとなる、

どのように、満たされない子供の気持ちを癒したらいいのか。


その前に、
まだそんな風に思えず、
自分のことでいっぱいであるのなら、
“ 自分の内なる気持ち ” を聞くこと。

自己満足でも、
自己顕示欲でも、

吐き出して、
解放して、

キャパのなかに “ 新たなスペース ” を作ること。

それは、子供や他人を受け入れる “ 器 ” になる。


まずは頭の中のモヤモヤを、いらない紙にでもコピペする。
これをするだけで吐き出す癖がつくし、
後にいいことをアウトプットするときにも使えると思う。


次に、本題。


親はたとえ自分のことでいっぱいだったとしても、
それは自分の都合であり、子供のせいではないことを受け入れる。
言い訳をしてきて “ ごめんね ” という。

子供がいつから、どんなときに満たされなかったのか、
“ 自分の内なる気持ち ” を聞いて上げる。

自分にしたようにね。

それがどんなに幼稚と思えることであったとしても、
受け入れて、視線を合わせること。

気持ちを受け取ったら、
自分に何が出来るのか、お互いの歩む方向性を一緒に、認識する。


注意するのはそれからでいい。

子供に注意する意味を伝え、
やる気を出させることを、
めんどくさい、わからないと投げ出さない。

目先のことを丸めないと人目が向いてしまう、
やる気を出させなければ自分の評価が下がってしまうといような
自分都合はどこかにおいておく。


これが、子育て = 学びが多い、ということだと思う。

子は親を見て真似び、
親は子を見て学ぶ、と。


ここから温かい言葉が生まれるし、
絆が生まれるし、
愛が育まれていくのだと思うのだ。



次回、実践例ということで、我が家の注意のされ方を。


気づけば、子供のせいにする親 1 [家族]

電車の中や、デパート、道ばたでも
よく見かける光景のなかに、とてつもないモヤモヤがあったりする。


子供に対して、

座っていなさい。
おとなしくしていなさい。
周りに迷惑だからやめなさい。
危ないからやめなさい。
今それどころじゃないから、後にしなさい。

という親達。


聞いている分には注意してるんだな、という感じだった。
でもふと視線をやると、

言うだけで、親自身は何もしていない、という人が少なくない。

いや、注意していますけど。。
って返されそうですが、
行動がともなっていない注意の仕方なのだ。


そもそも子供って、
親の意識を自分に向けさせたいのが、常。

“ 赤ちゃんにとって泣くことが仕事 ” というように、騒ぐのは当然。

成長につれて、単純に泣くことから、いたずらや反抗に変わるだけで、
親の気を引く= 愛情の確認 はかわらない。


そして忘れがちなのが、“ 子は親を見て、真似て育つ ” ということ。

自分の子供が言うこと聞かないな、ダメだなって思うということは、
親である自分自身の否定になってしまうということ。


これに気づくと一気に危機感が生まれるよね。


注意しているつもりでも、
忙しそうにスマホにかじりついていたり、
友人とのおしゃべりに夢中になっていては、
愛情はほとんど伝わらない。

子供にとっては放置されている状態にある。

仮に仕事で忙しいのであっても、
親にとって正当な理由があったとしても、
子供にとっては “ 気を向けてくれること ” が最重要なのだ。


それほど子供の思考はシンプルなもので、

親のエゴは通用しないもの。


その儚い気持ちを、親になると忘れてしまう。

または自分は満たされなかったから、やり方が分からないのかもしれない。

その儚い気持ちが満たされなければ、
意思表示がエスカレートしたり、
親に理解されることを放棄したり、
愛されないのは自分のせいだと傷つけたり、

気づけば、我が子を理解できなくなってくる。

わだかまりが深く強くなっていく・・


でもこれって、癒すことができると思っているの。



長くなってしまうので、
次回につづく。


「聞いて聞いて〜」 [パーソナル]

人の輪に入っていく子はよく、
「聞いて〜」って言う。

いい意味ですごく目につくし、うらやましい。

私にはハードルが少し高めだから。


寡黙な人も、なんて話しかけたらいいか分からないだけで、
一度話し始めたら妙に弾んだりするし、
話しかけられるのを待つタイプにとっては
話しかけてくれる人ってキラキラして見える。


「聞いて〜」って親とかにもあんまり言った記憶がない。
しっかり、いい子でいなきゃ、みたいな気持ちに押しつぶされてね。
こんなこと言わなくても大丈夫かな、
って聞いてもらうことに妥協してた。

だから子供の頃にポケットから床に落として、
その上にいろんな荷物がつみ重なって、
取り出すのが難しいような言葉だ。


また友達をつくるのが苦手だったから
帰り道、ぼーっと歩きながら、
何でも考える癖がついたね。

自分の本音はこうだな、とか
友達って何だろう、とか
あれ食べたいなー、とか
あの子かっこいいな、とか
好きな歌を思い出したりとか
夕方の空に出る月を見ながら、反対側の太陽の存在を想ったりとか。

そうやって考えてると、
悩みも一人で解決できるようになって、
あんまり人に相談しなくなるし、
話したい事は、自分に話しかける感じになるの。

一番親身になって聞いてくれる子が自分の中にいる。

その子は100%伝えたい事をわかってくれる。

感情も受け止めてくれる。

もしかしたら
今でもその絶対的な存在から離れきれてないから、
オープンマインドになりずらいのかも。
親離れできないみたいな。

でもそろそろ、そんな超理想的な友達なんていない現実を
理解して、気を楽にしたほうがいいみたい。


となると、
表面上の “おとなしくて強い人” っていう見られ方に矛盾を感じ始める。

世間的にはいいんだろうけど、
実際のところ、疲れるし、抑圧されるし、他人目線の評価が上がるだけで、
自分には満足できないもの。

ちゃんと見ていてもらいたい
気にかけてもらいたい
という気持ちは、小さくてもつねに端っこにある。

その小さきものを無視しない事。
これが自分を見失わないポイントかもしれない。


なんだか “いない” っていうネガティブ表現がいっぱいだけど、
とりあえずゴミ吐き出さなきゃね。
“カオナシ” のようにね。

それから緩めていこう。うん。
一言でも、小さい事でも口に出してみる。

きっと、あの子に出来るなら、私にも出来るんだよ。

少しずつ気持ちを口にしていったら、
ある日突然、自分から「聞いて〜」って切り出せそうな気がするな。


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